■ウォンパサー会長ご挨拶

サワディーカップ!会長のウィラサクレック・ウォンパサーです。

現役時代はルンピニーのランカーとしてムエタイに明け暮れていました。兵士として軍に所属、銃弾を受けて命を落としかけたこともあります。初めて日本に来たのは1993年、ムエタイ選手としてカバンひとつで来日しました。日本での戦績は11戦11勝、無敗です。

1997年にジムを始めてから早いもので来年には25周年を迎えようとしています。時が経つのは早いですね。
荒川ジムだけだったジムも少しずつ会員が増えて、今では直営のジムを5店舗経営しています。さらにフランチャイズのジムが北海道と福岡にもあります。全てのジムにタイから優秀なトレーナーを招聘、会員の皆さんへのムエタイの指導に集中できるよう、衣食住完備で指導に従事してもらっています。

私のジムには小学生のお子さんから70代の方まで幅広い会員さんがいます。ムエタイの練習を通して強い身体と強い心を養ってもらっています。プロ志望の方にも、“やる気”さえあればタイのランカーやチャンピオンに負けない強い選手に育てることもできます。

素晴らしい環境を整えて皆さんをお待ちしています。
「経験はコンビニでは買えない!!」
どうぞお気軽に体験にいらしてください。


 

■Chairman’s HISTORY-ウォンパサー会長に取材しました

ムエタイの技術だけでなく、人物を認め、育成し、ジムも選手も共に成長することが大切

-ムエタイとの出会いはいつ頃ですか?

私は15歳の時、故郷ヤソトーンのお祭りで行われるムエタイの試合に初めて出ました。
1か月間、独学でムエタイを練習し、初めての試合で判定勝ちを収め、生まれて初めてのファイトマネーを手にしました。家が貧しかった私にムエタイが希望を与えてくれました。

-プロのムエタイファイターとなったきっかけは?

私はヤソトーンの田舎のジムにスカウトされて本格的なムエタイの練習を始めました。その後もお祭りで行われるムエタイの試合でたびたび勝利し、当時のジムの会長からバンコクで本格的なムエタイファイターを目指すことを勧められました。これまでの試合で6戦全勝でしたので、私自身、ムエタイファイターとしての適性があるのでは、と自信を深めていたのです。

-バンコクのジムの環境はどうでしたか?

私はバンコクのウォンパサージムに移籍し、「ウィラサクレック・ウォンパサー」というリングネームをもらいました。当時のジムの会長は、私がチャンピオンになることを期待して、ジムの有名なファイター「ウィラサック」選手の名に“小さい”という意味の「レック」をプラスして、このようなリングネームをつけてくれたのです。
私はまだ16歳の子供でした。日本では本場のムエタイファイターは戦いのみを強いられているようなイメージでしょうが、決してそんなことはありません。
きちんと勉強もするようにと、ジムに寝泊まりしながら高校に通わせてくれました。このようにジムの選手を自分の子供のように思い、大切に育ててくれる人もいます。
私が今ある成功の秘訣は、会長から身体で学んだ教え、「選手の人格を認め、ジムも選手も共に成長していこう」という考え方にこそあると思っています。ムエタイの技術だけでなく、こうした人の育成法も知らず知らずのうちに会長から学んでいたのです。

本格的なムエタイを日本に根付かせたい、日本に正しいムエタイを伝えたい

-来日を決意されたのはなぜですか?

バンコクではプロのリングで60戦ほど試合をしました。あまり負けることはありませんでしたが、ジムの力や会長の経済力、人脈などによってタイトルに挑戦する機会にも大きな影響があり、強ければチャンピオンになれるというものではありませんでした。
ムエタイファイターとしての将来に不安を抱いた私は21歳の時、会長の許しを得て陸軍に入隊、1年後には除隊し、その後はボディーガードの仕事もしていました。
ムエタイジムでは後輩指導を行っており、日本からムエタイトレーナーの要請があれば、当時の会長は真っ先に私を指名くださいました。その時の会長の言葉があり、日本でのムエタイ普及を絶対に実現させてみせる、と固く決意しました。

バンコク時代、ジム会長の言葉

「日本に多くのムエタイトレーナーが渡ったが、みんなただのミット持ちで帰ってくる。本当にムエタイを日本に根付かせるためには、ミット持ちからジムの会長になり、選手を育成する多くのジムを作る。そしてムエタイの大会を開けるまでになって初めて、ムエタイが日本に正しく伝わったと言える。ぜひ、日本に正しいムエタイを伝えてくれ。お前ならそれができる。それが、私やお前を育ててくれたムエタイへの恩返しになる。」


-来日からジム開設に至るまでをお聞かせください。

私が初来日したのは1993年、26歳の時でした。東京郊外のキックボクシングジムでミット持ちとして仕事を始めました。ジムでの指導の他、土木現場でも働きましたが資金はなかなか貯まりません。
そのうち全日本キックボクシング連盟から試合のオファーがあり、日本で11戦、すべてKO勝ちを収め、日本のキック界でも多少は私の名が知られるようになりました。こうしてファイトマネーを獲得、この他にもムエタイショーに参加し、ジム開設のための貯金を増やしていきました。
キック界で名が通るようになるとジム以外の選手からも、「ムエタイを教えてほしい」と頼まれるようになり、私のムエタイ理論を一流のプロ選手が認め始めたのです。
最初は荒川区のスポーツセンターを借りて、週1回3時間、一人1800円で指導を始めました。ジム開設への第一歩です。真剣な指導が口コミで評判になり、次々と生徒が集まり出しました。
そして毎日練習したいという生徒たちからの声もあり、新たに荒川のボクシングジムの会長にお願いし、夜の時間帯だけジムを借りることにしました。資金のため他の仕事も掛け持ち、ほとんど寝ない生活が3カ月ほど続いた頃には生徒は100人ほどに増えました。
この夜間指導が2年ほど経ったある日、ボクシングジムの会長から終日ジムを借りてもらえないかと相談があり、それまでの貯金を一気につぎ込み、古いボクシングジムの看板を外し、『ウィラサクレック・ムエタイジム』の名で看板を取り付けました。念願であった自分のジムをついに持つことになったのです。

-ムエタイ普及の夢は実現されましたね。

自分のジムを持ってから、昼の仕事は辞め、ムエタイジム一本で生活していくことにしました。不安はありましたが、生徒は予想をはるかに超えて集まり、あっという間に300人に増えました。
こうなると満足のいく指導を行うためには、タイから優秀なトレーナーを呼ぶ必要があり、トレーニング用品も輸入しなければなりません。
ただ不思議なもので、運営が順調に回転し始めると、タイ本国でも協力者があらわれるようになったのです。
それが世界的なトレーニング用品メーカーのフェアテックス社です。
それから更に私は、今後、日本で本格的にムエタイを広げる本拠地として、自社ビルを持つことが必要だと考えました。その際、自身で調達した資金の他、フェアテックスジムの会長が経済的にも協力してくれて、1999年、ついに自社ビルを所有、その1階に念願の『ウィラサクレック・ムエタイスクール』の設立を果たしました。
その後も貯めた資金を次のジム設立のために使うことによって次々とジムは増え、気づけばフランチャイズも含め日本全国に私のジムが8つもできました。
短期間でこれほどの展開に至ったのも、一番の理由はバンコク時代のジム会長の教え、方針を貫いたことにあります。ジムのトレーナーや責任者と利益を分け合う、トレーナーは人が増えるほど自分の収入になるといったシステムが明確であれば頑張りを発揮し、一生懸命教えることで生徒は強くなる、そしてこのジムなら強くなるという評判が立てば、生徒はさらに増え、質が良くなるのです。
私はジムを展開しつつ、強い選手を育て、キックやK-1のリングに上げました。
そして本格的なムエタイを日本に根付かせるため、多くの人に本物のムエタイを見て、知ってもらいたいと思い、日本全国で様々な大会を開催してきました。
「日本にムエタイジムを広め、本物のムエタイの大会を開く」
バンコク時代、ジム会長の前で誓った言葉、その夢は今、なんとか実現できたように思います。

-では、最後に皆様へ一言お願いします。

ムエタイは決して特殊で危険なスポーツではありません。誰でも出来る安全で楽しいものです。
人生は一度限りです。
ムエタイで健全な肉体とパワーを手に入れて、最高に楽しい人生を謳歌しませんか!